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スタッフブログ

本店30周年を振り返って part3

銀行の面談で、突きつけられた融資条件は、金利6~7%だった記憶、親族以外の第3保証人を用意する事でした。
どう考えても親以外、私の為に保証人になってくれる人なんかいません。

ダメ元で、それまで勤めていた会社の社長に頼んでみる事にしました。 「西方君、私は親から保証人だけはやるな と言われて育て来た。 お役い立てなくてb申し訳ない。」とアッサリと断られました。

当たり前ですよ、バブルが崩壊して、銀行は不良債権を抱え、保証人になったために、多額の借金を抱え込み、倒産した話をよく聞くご時世でしたからね。

途方に暮れた私は、もう少し金利の安い政府系銀行の金融金庫を訪ねることにしました。

新規出店で自己資金が少ない私は、再度事業計画書を見直し、チャレンジしてみました。 面談が決まるまでがすごく長かった事を覚えています。

すでに内装工事は始まっているのに支払うお金が不足している不安な毎日を送っていました。
やっと面談が決まり、必要書類を持参して行き、保証人の予定者、通帳など自己資金額の確認できるもの、税金の滞納が無いかなどを聞かれました。それでは、これから審査に入りますので、結果は後日連絡しますとの事。

物件の保証金、内装工事の手付け金、什器備品などを払って、手持ちのお金も底をついてしまい、 融資が決まらなかったらどうしたらいいんだ。 サラ金から借りるしか無いのかなど、 毎日祈る様な思いで過ごしていました。

1週間くらい過ぎたであろうか1本の電話が鳴り、父親の所有している不動産を担保に出来るなら融資出来るとの事、何なんだ、担保はとは、俺はそんなに信用が無いんだと思いましたが、「父に相談してみますので こちらから改めてご連絡いたします」と言って電話を切りました。

親には面倒かけたく無いと思い、自分の力で何とかしたいと考えいましたが、仕方なく、実家に戻り、父親に全ての現状を話しました。

父曰く、「何でもっと早く相談に来ないんだ、心配していたぞ」と、銀行の通帳を渡されました。
涙が溢れてきた事を覚えいます。

またまだ、父を越えることは出来ないな。 「親父って、いつまでたってもでっかいな。」
情けない自分が恥ずかしくなりました。
但し、条件があると言われ、天皇陛下が防御し、世間は自粛ムード、大日本帝国陸軍大尉だった父は、「3月の開店日は伸ばしなさい。今はそういう時期じゃない、空家賃も負担するので5月頃まで待ちなさい。」 予想もつかなかった一言に唖然としました。

「そんなこと出来ないよ。」、実は、友人知人には3月オープンと連絡済み、どうしたら良いか迷いましたが、幸い、招待状は印刷中だったので変更可能だったため、父の指示に従い開店日は、5月の大安吉日を選び、16日に決めました。

翌日、公庫の担当者に連絡し、開業資金のめどが立ち自己資金を増やして借入金を減らすので、
保証人だけで融資できないかと問い合わせましたら、再度面談が決まり希望金額の融資が実行されました。 
その時のことは、今でも思します。 妻と共に喜び、美酒を酌み交わし、有頂天になって喜んでいました。 「これでやっと自分に運が向いてきた、船橋で1番のBARを作ろう。」

ところが、内装工事は順調に進みましたが、追加工事や什器備品などが膨らみ、予定額をオーバーしてしまいました。
内装業者は、高校時代の友人の兄で、地元の工務店、父親はロータリークラブの会長と言っていました。 「残金は出世払いで良い、その代り船橋で1番と言われるお店にするんだよ」と、また出会った人に助けられることになります。、この恩を忘れずに、皆さんの期待に応えられるおBARにしようと思う毎日でした。
お陰様で、準備期間と資金繰りに余裕ができ、料理の試作、カクテルの練習、メニュー作りなど開店に向けての準備が出来たのは幸いでした。  感謝! 感謝! 感謝! しきれないほど


BARの看板メニューは、お酒と相性の良い燻製類、ビーフジャーキー、手作りソーセージ、などに決め、締めの食事は、鮪の鉄火丼、ユッケ丼、暖かいニュー麺など、和食をベースにした創作料理としました。

お店のネーミングは、長いこと悩みましたが、最初カクテル名のブロンクスの予定でしたが、六本木にブロンクスバーというBARがあり、決めるのに迷い、そのBARに行ってみました。
店長に店名の由来を尋ねると、業界で有名なバーテンダーから命名されたと聞き、バー ブロンクスという店名は重過ぎると思い 諦めることにしました。  

次の候補を思案中、見ていたテレビドラマから曲がれて来た曲にが忘れられず、翌日テレビ局に昨晩のドラマで流れていた曲のタイトルを聞きました。その局名が、アメリカのジャスボーカリスト、ダイナショアーの歌ったブルーキャナリーだったんです。

早速、レコード店に行って探しましたが見当たらず、店員さんに尋ねるとその局は、もう廃盤になっていて有りません、と言われてしまいました。
聞いたこともない局を店名に出来るか? しかし、頭の中では、BAR BLUECANARY の響きの良さにはまってしまったので、都内の中古レコード店を回って探そうと思い、それから数日、店名のために走り回りました が、結局見つからず、諦めかけていた時、津田沼にあるレンタルレコード店で見つけたんです。 やったぞ、という思いでレンタルし、自宅に戻りレコードをかけようとすると、レコードプレーヤーが無い事に気づく。
次の日、秋葉原の電気街で一番安いプレーヤーを買い、自宅に戻り聞くことにしました。プレーヤーから聴こえてくるのは、テレビで聞いた曲とは全く違い、間違ってしまったのかと疑ってみましたが、テレビドラマの方はサックスの音色にアレンジしてあるので納得。 局のイメージはBARとは言えないが、自分の中で店名はBAR BLUECANARYにすでに決まっていました。

次にBAR BLUECANARYと同じ名前が無いか、電話帳で調べると新橋の第一ホテル内にBAR CANARYがあることがわかりましたが、BLUECANARYというBARは無く、第1候補として決まりました。
その後は、印象の残る名前が出てのなかったので、食事のできるBARにしたいと願い、
FOODS BAR BLUECANARYと決定しました。
因みに、日本では、雪村イズミさんや石田あゆみさんなどがカバーして歌ったていたそうです。
後に実家に帰った時、母にとても良い店名ね、昔を思い出すと言われたことを覚えています。

開店の日程も決定し、レセプションの招待状も発送しました。

自宅で燻製作りとカクテルの練習の毎日、開店の日まであっという間でした。

妻の母から商売繁盛のため、寒川神社のお札を頂きましたがどこに祀ったら良いかも分からず、そのまま放置状態でした。

開店前の店舗検査でL5型の手洗いシンクを付け忘れ、急いで対応して再検査、開店ぎりぎりに営業許可を頂き、5月16日大安オープンに何とか間に合いました。

いよいよ開店前日レセプションパーティー、私と妻の両親、親戚と父親の友人、自分の友人、知人をご招待して、大変有意義なひと時を過ごしました。 皆から祝福されされたまでは良かったのですが・・・・・明日5月16日から開店です。

続く



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